「買い物をしていたらマイケルジャクソンの“Beat It”がかかったんだ。ソロのところで僕の前の子ども達が“こいつ、エディヴァンヘイレンみたいに聴こえるようにしてるよ”と言ったんだ。彼の肩をたたいて言ったよ。それは僕だよ!って。最高におかしかったよ。」
エディヴァンヘイレン(ヴァンヘイレンのギタリスト)
1960年代や1970年代においては、ブラックミュージックと、ロックを中心とする白人系のポピュラーミュージックの間には壁があった。基本的に、ブラックミュージックを聴くのはブラック系の人種で、白人系ポピュラーミュージックを聴くのは白人系の人種だった。また、モータウンのようなソウルミュージックのグループはブラック系のシンガーやミュージシャンが歌い演奏し、いわゆるロックバンドは白人系のシンガーやミュージシャンが歌い演奏することがほとんどだった。
もちろんジミヘンドリックスのような例外は存在したものの、完全にロックバンドとして受け取られていて、ブラック系のファンが少なかった。
また、ブラック系と白人系の大物が共演することも、きわめて珍しかった。
しかし、1980年ごろにはブラック系アーティストの中で、白人系音楽のスキルやセンスを取り込もうとする動きがでてきた。その一人がマイケルジャクソンのプロデュースで良く知られるクインシージョーンズだった。日本人にはなじみ深い1981年のヒット曲「愛のコリーダ」は、ドラムが白人のジョンロビンソンで、ギターも白人の「TOTO」のスティーブルカサーだった。
クインシージョーンズによるボーダーレスな音楽の魅力がさらに爆発したのが、クインシーがプロデュースし世界で7000万枚を売り上げた1982年のマイケルジャクソンのモンスターアルバム「スリラー」だ。
大ヒット曲の「今夜はビートイット (Beat It)」では、ロック界の最高峰のギタリストとして君臨していたエディヴァンヘイレンが必殺技のライトハンド奏法を駆使した高速なギターソロを弾き、サイドギターとベースに「TOTO」のスティーブルカサー、ドラムにTOTOのジェフポルカロ、さらにTOTOからキーボードでスティーブポルカロが参加した。マイケルの突き刺さるような歌と、白人系の凄技ミュージシャンがコラボすることで、ブラック系も白人系も超越した全く新しいダンスミュージックが生み出された。
そして、もうひとつの画期的な楽曲が、ポールマッカートニーと共演した「ガールイズマイン」だ。いわばブラック系アーティストの頂点と白人系アーティストの頂点の2人がコラボするのは、ポピュラー音楽史上で初めてのことだった。
一方で、この1982年頃には、音楽の宣伝・プロモーション方法に革命が起きていた。1981年に設立されたアメリカの音楽専門ケーブルテレビ局「MTV」によるプロモーションビデオ(PV)に音楽ファンが熱狂して、ヒット曲にビデオ映像が欠かせなくなってきていたのだ。そして、抜群のビジュアルを持ち、天才的なシンガーであると同時に天才的なダンサーでもあるマイケルジャクソンは、その秀逸なビデオ作品とともにMTVを制覇し、「キングオブポップ」の座に登りつめていく。
しかし、設立当初の1982年の頃に、MTVはブラック系アーティストを流さない方針だった。これが変わって、初のブラック系アーティストのビデオとしてMTVで大人気となったのがマイケルジャクソンの代表曲「ビリージーン」だ。
「ビリージーン」によってMTVのブラック系音楽の突破口を開いたマイケルジャクソンは、「今夜はビートイット」「ガールイズマイン」、さらに映画監督のジョンランディスによる13分以上の映像「スリラー」などのMTV的な大ヒットを連発し、MTVのMはマイケルのMじゃないかといわれるほど繰り返してビデオが再生された。
MTVとマイケルジャクソンによって時代は変わり、音楽とビジュアルとダンス/パフォーマンスのバランスがとれた「MTV映え」するアーティストが求められるようになった。この直後にブレークしたマドンナやシンディローパーはまさに「MTV映え」するアーティストであり、逆にいえば、MTVのない時代だったら彼女たちはここまでのスーパースターになっていなかったかもしれない。
そして1982年には、もうひとりの天才的なブラック系ミュージシャンがブレークする。ブラック系の父親と白人系の母親の間に生まれ、歌を歌い、ギター、キーボード、ドラムなどの楽器を演奏し、作詞、作曲もすべてこなせる「プリンス」だ。
1978年に全ての楽器をこなしてファーストアルバムを制作したプリンスは、1982年にバンド形態に移行し、アルバム「1999」は2枚組にもかかわらず400万枚を売り上げた。このプリンスのレヴォリューションというバンドはブラック系と白人系と男女が混在し、最近の言葉でいうところの「多様性」を先取りしていた。タイトル曲の「1999」のビデオはビジュアル的にも華やかで、マイケルジャクソンよりも「濃いめのブラック」で「大人向けでエロかっこいい」プリンスの妖しい魅力をよく伝えている。
このアルバム「1999」からは、いくつものヒット曲が生まれたが、「Little Red Corvette」は、よりロック的で、1970年代に一世を風靡したマークボランやデヴィッドボウイのようなグラムロックを彷彿させる。当時まだ売り出し中だったプリンスとしては、バンド形式でロック的なテイストを取り込むことで、そのデビュー当時のブラックコンテンポラリー的な音楽性とは違ったファン層を獲得することに成功した。
タイミング的にはマイケルジャクソンの「スリラー」が1982年11月30日で、プリンスの「1999」が1982年10月27日と、ほぼ同時期なので、偶然にも同じタイミングでブラック系アーティストの白人ロック的なアプローチが世界的にブレークしたのだ。もちろんプリンスの音楽もMTVの力によって世界中に拡散された。
その後、本格的にプリンスが頂点に昇りつめるのは、1984年のアルバムおよび映画として大ヒットした「パープルレイン」だ。
アルバムは発表初週に100万枚を売り上げ、ビルボードチャートのトップに実に24週間もランクインし、シングルカットされた「ビートに抱かれて」(When Doves Cry)、「レッツ・ゴー・クレイジー」(Let’s Go Crazy) の2曲がシングルチャートで1位となり、プリンスは全米でのボックスオフィス、アルバムチャート、シングルチャートですべて1位を獲得するという偉業を達成する。
さらに凄かったのは、映画「パープルレイン」が1984年の全米の映画興行収入のベスト10に入ったことだ。
1980年代においては「映画」というコンテンツは圧倒的な支配力を持ち、1984年は、いまでも人気がある「ゴーストバスターズ」や、「ビバリーヒルズコッブ」や、スピルバーグの「グレムリン」のような名作が生まれた年だった。
映画界のレジェンドであるスピルバーグに対抗できるような作品を、映画の世界を全く知らないブラック系の若者のプリンスが、音楽サイドから提供できたのはなぜか?
それは、プリンスの楽曲の良さはいうまでもなく、父親がブラック系で母親が白人系という「多様性」を生まれつき身につけていたからではないか。ブラック系や白人系といった境界がなく、見事に融合された音楽に世界が熱狂したのだろう。