1991年、フランキーナックルズがハウスミュージックとポップスの融合を導いた

1991年、フランキーナックルズがハウスミュージックとポップスの融合を導いた

「フランキーナックルズの作品は心を開かせ、人と人とを結びつけてくれました。異なるジャンルを融合させて新たな興味を呼び起こし、私たちの想像力をかき立てた。彼はその分野の開拓者であり、彼の残した遺産はシカゴに、そして世界中のダンスフロアに、常に生きつづけてます」

バラクオバマ/ミッシェルオバマ(元米大統領オバマ夫妻)

フランキーナックルズは、「ハウスミュージックのゴッドファザー “THE GOD FATHER OF HOUSE MUSIC” 」と呼ばれ、2014年に他界したときにはバラクオバマ大統領とミシェル夫人が追悼の想いを記した手紙を送った。またシカゴでは毎年8月25日を公式に「フランキーナックルズの日(Frankie Knuckles Day)」としているが、これを制定することに尽力したのが、当時、米上院議員だったオバマ氏だ。

ハウスミュージックはもともと、シカゴのゲイディスコ「ウェアハウス」から自然発生したもので、歌が入ってないインストゥルメンタルの曲も多いが、一方で「ディーバ」と呼ばれる、ハイテンションの女性ボーカルが入っているような曲もゲイピープルたちに好まれた。

そのようなハウスのスタイルの始祖ともいうべきフランキーナックルズが目指したのは、70年代や80年代の「ディスコミュージック」や「フィラデルフィアソウル」のような音楽だ。ディスコミュージックとゲイカルチャーの結びつきは古く、日本でも有名なビレッジピープルの「YMCA」は、ゲイピープルがゲイピープルを勇気づけるという歌詞の内容だし、「ホットスタッフ」や「マッカーサーパーク」などで有名なドナサマーを熱狂的に支えていたのはゲイピープルだった。

アメリカという国は今でこそ「LGBT」という言葉で前向きに多様性を受け入れようとしているが、旧来のキリスト教中心の文化の流れでは同性愛はタブーであり、ゲイカルチャーへの反対圧力や嫌悪感も大きく、1979年には激しい「反ディスコ運動」というものが起きたほどだ。これが変化するのが80年代後半から90年代前半のあたりで、自らもゲイで黒人のフランキーナックルズの音楽とクラブの盛り上がりがゲイカルチャーに対する社会の理解を前進させたのだ。

フランキーナックルズは、自宅にある日本のローランドのドラムマシン「TR-909」などの電子楽器を中心とした機材でそのような音楽を表現しようとして、試行錯誤しつつ新しいダンスミュージックを生み出した。それは、最初クラブカルチャーの中で注目され、やがてクラブやゲイカルチャー以外からも広く注目され、ハウスミュージックという新しいジャンルの音楽が世界中に拡大していった。

フランキーナックルズが1991年にリリースした代表曲が「The Whistle Song」だ。
先端的なダンスミュージックというよりは、メローなグルーブが溢れる、誰からも嫌われない心地よいインストゥルメンタル楽曲と言うべきだろう。

ハウスミュージックが拡大していく初期の名曲として、(フランキーナックルズではないが)クリスタルウォーターズの「Gypsy Women」をあげることができる。1991年に全米のビルボードで8位、スペインやイタリアではチャートの1位を獲得したハウスミュージックの名曲のひとつだ。

さらに少しさかのぼって1989年にリリースされた、(フランキーナックルズではないが)ハウスミュージック初のヒット曲といわれた楽曲が、テクノトロニックの「Pump Up The Jam」だ。1989年に全米、全英で2位、今でもYouTubeの再生回数が2億4千回以上という大人気の曲だ。

一方で、クラブミュージックとDJの世界で確固とした地位を築き、リスペクトされていたフランキーナックルズは、超有名アーティストのリミクサーとして数々の作品を残していく。

まずは1995年のマイケルジャクソン「You Are Not Alone」のフランキーナックルズによるリミックスだ。

1994年にはジャネットジャクソンの「Because Of Love」にも、フランキーナックルズによるリミックスを提供している。

1996年には、ダイアナロスの「Someday We’ll Be Together」のフランキーナックルズのリミックスを提供。

これら3曲は、クオリティの高い楽曲と、マイケル、ジャネット、ダイアナの至高のボーカルに、フランキーナックルズのハウスサウンドが見事に融合したリミックス作品となっている。

このような大物アーティストのリミックスと自身の作品によって、ハウスミュージック独特の電子的なサウンドがポピュラー音楽に取り込まれるようになった。

ハウステイストのサウンドを取り込んだ大ヒット曲といえば、1998年に各国でチャートの1位を獲得したシェールの「Believe」をあげることができる。

日本でもピチカートファイヴが1993年にリリースした「東京は夜の7時」は明らかにハウスミュージックのエッセンスを取り入れた名曲だ。

ハウスミュージックと日本の関係についてあらためて見直すと、実は日本の音楽シーンにハウスミュージックの影響は極めて少ない。なぜなら、ハウスミュージックが台頭してきた1990年代の前半は、テレビを中心に「イカ天ブーム」が盛り上がり、当時のレコード会社もマスコミも「新しいタイプのバンド」を発掘することに躍起になっていたからだ。

一方で、日本のダンスミュージック界隈では、1991年に東京にできたディスコ「ジュリアナ東京」が話題を呼び、そこでかかっていたベルギーなどのヨーロッパ産「テクノ」が主流となり、ハウスミュージックは日本のクラブの世界では「非主流」のマニア向けのジャンルとされた。

当時の音楽業界において、あるバンドがハウスミュージックを取り込もうとしてハウスの定番ドラムマシン「TR-909」を導入しようとしたところ、レコード会社のディレクターが「ジュリアナ東京の音楽みたいに聞こえるからNG」とされて、ロック調のリズムに修正させられた、といった実話もある。その後エイベックスが小室哲哉を中心として日本独自のダンスミュージック的Jポップを開発するが、それはヨーロッパの「ユーロビート」の流れを汲んだもので、ハウスの流れではなかった。

ハウスミュージックと日本の関係で、一番大きいのは、ハウスのリズムの定番となった、日本のローランドのドラムマシン「TR-909」、および、その独特のドラム音が当時も今も世界中で、定番として使われていることかもしれない。

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