1970年、ポールマッカートニーとチャートで競いあったのはビートルズだった

1970年、ポールマッカートニーとチャートで競いあったのはビートルズだった

「ウイングスは僕のバンドかと思っていたけれど、リンダのバンドだった」

ポールマッカートニー

なし崩し的に解散したビートルズから、ソロ活動を始めたポールマッカートニーの初のアルバムが、1970年に発売された「ポールマッカートニー」だ。このアルバムの特徴をひと言でいえば「ビートルズ的」ということだ。それは、1969年というビートルズにとって解散時の激動の一年に「レットイットビー」と「アビーロード」という2つのアルバムの制作をやり遂げ、その直後の1969年末から録音を開始したのだからビートルズ的になるのは当然といえば当然だ。

この「ポールマッカートニー」のアルバムにおいて、ポールは全楽曲のボーカルと作詞・作曲をしたのは当然として、ギター、キーボード、ベース、ギターなど全ての楽器を自ら演奏した。唯一のポール以外のメンバーは愛妻のリンダマッカートニーのみだった。
そのリンダとのデュエット曲が「男はとっても寂しいもの – Man We Was Lonely」だ。

これは、有り余る才能を持つゆえにビートルズで孤立し、「Lonely」な状態になったポールの心境を物語った曲だと考えられるが、全ての楽器をこなし、一人でもやっていけることを示しつつも、リンダだけは必要だった、ということも伺い知ることができる。

アルバム「ポールマッカートニー」 は、CSN&Yの「デジャヴ」にかわって、1970年5月に全米チャートでナンバーワンを獲得。イギリスのチャートで「ポール・マッカートニー」はサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」とビートルズの「レット・イット・ビー」に阻まれ、1位にはならなかった(最高で2位)。全米チャートで、その後「ポール・マッカートニー」にかわって1位に輝いたのは「レット・イット・ビー」だった。

その後、ポールは1971年にリンダとともにバンド「ウイングス」を結成する。それまではロックアーティスト専門の写真家かつ菜食主義者向け料理研究家だったリンダが、ウイングスではコーラスとキーボードを担当した。しかし、以前にはこれといった音楽キャリアはないため、ウイングスにおいては常に批判の対象となった。一方で、ポールは音楽的に頼りになる右腕として、元ムーディブルースのデニーレインを、最初からウィングスに加入させていた。ムーディブルースは日本では、あまり知られていないが、トータルセールス7000万枚以上を売り上げたスーパーグループだ。

このウイングスが軌道に乗るのは、1973年のアルバム「レッドローズスピードウェイ」からだ。その代表曲は、ポールがリンダに向けて書いたラブソング「マイラブ」である。ポール独特の甘いメロディとシンプルでストレートな歌詞が光る名バラードである。

アルバム「レッドローズスピードウェイ」は、酷評された前アルバムから一転してヒットし、全米アルバムチャートで一位となった。そして、勢いがでてきたポールとウイングスは同じ1973年にアルバム「バンドオンザラン」を送り出した。

結果的には全米・全英でアルバムチャートで1位となり、評論家からも評価が高いこのアルバムは、制作前にリードギタリストとドラマーが離脱したため、ほとんどの楽器をポールが演奏し、リンダとデニーレインの3人で主要部分が制作された(後にサックスなどの楽器が追加された)。このアルバムは、ロックンローラーとしてのポールの色が濃いもので、タイトル曲の「バンドオンザラン」や「ジェット」などはウイングスのロック調の楽曲の代表的なものとなった。

解散後もポールが意識していたジョンレノンが、反戦などの強いメッセージを持った音楽を打ち出していたのに対して、ポールは強いメッセージ性とは無縁で、誰からも好かれ、誰も傷つけないポップソングをつくり続けることに徹していた。これはポールとジョンの端的な違いだ。

そんなポールの特性がよく表れているのが1975年の「あの娘におせっかい – Listen to What the Man Said」や、1976年の「心のラブソング – Silly Love Songs」だ。

1976年にリリースしたアルバム「ウイングスオーバーアメリカ」は3枚組のライブという大作にも関わらず全米1位となり、そのアメリカツアーも60万人ものオーディエンスを動員し大成功を収めた。

その後もウイングスは1981年まで活動を続け商業的には成功した。しかし、その最初は決して順調ではなく、ビートルズ解散の失意から立ち直れなかったポールをリンダが救うような形でスタートしたのだ。

「ビートルズが解散した時点で、僕ははボロボロだった。なんとかしようとずっと努力してたんだけど、どうにもならなかった。解散のあとは落ち込んだ。リンダは、しっかりしろと僕を励ましてくれて、これからどうするつもりなの?と聞かれ、音楽を続けなければ、と言った。本当はそのころ、核物理学者になろうかなとも思ってけど、無理だと思って、じゃあ一緒にバンドをやろうかという気になったんだ」

ポールマッカートニーという人物は天才的であるがゆえに精神的に不安定なところも多く、ビートルズにおいてもウイングスにおいても、たびたびメンバーと激しい衝突が起きた。その不安定なポールをなんとかリンダが支えていたというのがウイングスの実態だったのだ。

そのリンダが最初に自身で作った楽曲が「Seaside Woman」だ。決して上手なボーカルとはいえないが、リンダの人間性がよく表れているのではないだろうか。

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