1975年、ユーミンの「コバルトアワー」によって日本のポップスが本物になった

1975年、ユーミンの「コバルトアワー」によって日本のポップスが本物になった

「どう?私は上手いでしょ?あなたにはこんなに歌える?」
なんて思わせる歌には品がありません。

「あー僕も歌ってみたい。私もそれくらい歌えるかも。」
と思わせる歌こそ、品のある最高の芸です。

だからビートルズが出てきて多くの若者がバンドを始めました。
ユーミンが出てきて日本の女性の歌がガラリと変わりました。
あなた(ユーミン)のライブにはゲイの人たちが多いそうです。

マドンナやレディガガもそうです。
あなた(ユーミン)の歌が「型にはまるな。自分らしくやれ」と励ましてくれるからです。あなたの歌は、あなたの隣に私たちを座らせてくれます。


小林克也(小林克也からユーミンへの手紙)より

1972年に18歳でレコードデビューし、現在は通算3000万枚以上を売り上げたユーミン(松任谷由実/荒井由実)も、決して最初から売れたわけではない。1970年代の当時にはアーティストの名前を売るのに必要なのは、アルバムよりも、ラジオやテレビで流すことができるシングルレコードでのヒットだったが、最初から4枚めまでのシングル曲はヒットしなかった。今では、ユーミンの楽曲で最もよく知られている名曲中の名曲「やさしさに包まれたなら」を1974年にシングルとしてリリースしていたにも関わらず、当時の音楽ファンの反響は少なかった。

そして1975年に、日本の音楽史上において画期的なサードアルバム「コバルトアワー」をリリースしてユーミンは頭角を現していく。先行シングルの「ルージュの伝言」は初のチャート入りをして、アルバムもチャートに入った(最高2位)。

この当時のユーミンには目に見えない音楽界の壁があった。
それはなにか。1975年のヒットチャートを見てみよう。

チャートを見てわかるように、当時の日本の音楽には「歌謡曲」と「フォーク」しかなく、ユーミンのような「日本のポップス」というジャンルが存在していなかったのだ。
加えて、いわゆる「歌謡曲的」に上手い歌手か「フォーク的」に上手い歌手でないと、大衆から認められない時代だったので、ユーミン独特の力まず感情的にならないクールな歌い方が当時の歌謡曲ファンやフォークファンに理解されなかった。もともとフォークの影響がゼロで、イギリスのロックを目指していたユーミンの桁外れの才能は当時としては「規格外」すぎたのだ。

アルバム「コバルトアワー」の一曲めのタイトル曲「コバルトアワー」は、40年以上たった今でも全く古く聴こえないオシャレな「シティポップ」として仕上がっている。日本人離れしたグルーヴィなベースは、後にYMOのメンバーとして世界的に有名になる細野晴臣で、都会的なサウンドを演出するエレクトリックピアノ(フェンダーローズ)によるキーボードは、翌年1976年にユーミンと結婚する松任谷正隆だ。

荒井由実 コバルトアワー(1975年)

このようなポップスは当時の日本にも世界にも類がないもので、日本では当時「ニューミュージック」と言われ始めていたが、このきらびやかなサウンドは、むしろ後の世の中でいわれた「シティポップ」と呼ぶべきものだろう。

このアルバムは名曲揃いで、ユーミンの名前を世に知らしめた名曲「卒業写真」も収録されている。この曲は岩崎宏美、いきものががり、浜崎あゆみ、リタクーリッジなど、30人以上のシンガーにカバーされている。

荒井由実 「卒業写真」(1975年)

だが、最初にこの「卒業写真」を有名にしたのは、同じ1975年にデビューした、元「赤い鳥」の山本潤子を中心とするシティポップグループの「ハイファイセット」だ。

ユーミンの楽曲をカバーするシンガーは多いが、いまだに山本潤子以上に上手く歌える人を見つけるのは難しい。楽曲に対する深い理解と繊細な歌唱力が要求されるからだ。その点、オフコースの小田和正でさえ「かなわない」といわしめた山本潤子の歌唱力とユーミンの楽曲の組み合わせは今でも輝きを全く失わない。

また、ハイファイセットもユーミンも「翼をください」の作曲家としても知られる村井邦彦が設立したアルファ&アソシエイツ(後のアルファレコード)に所属しており、バックミュージシャンの細野晴臣(ベース)、松任谷正隆(キーボード)、鈴木茂(ギター)、林立夫(ドラム)などと村井邦彦も一丸となって日本の新しいポップスを生み出そうとしていたのだ。

さらに山下達郎がコーラスアレンジ、吉田美奈子、大貫妙子などがコーラスで参加している。

荒井由実 「何もきかないで」(1975年)

この豪華なコーラスを聴ける「何もきかないで」は、ボサノバシンガーの小野リサにもカバーされた隠れた名曲だ。

「コバルトアワー」がリリースされた1975年には、もうひとつの画期的な日本のポップスのアルバムが生み出された。山下達郎と大貫妙子が在籍していたグループ「シュガーベイブ」の「ソングス」だ。

「コバルトアワー」のあとに、ユーミンは「あの日に帰りたい」でシングルチャートの1位を、「ユーミンブランド」でアルバムチャートの1位を獲得する。

その後のユーミンの活躍は凄まじいもので、1981年の「昨晩お会いしましょう」からアルバム17作品が連続して1位を獲得するなど、変わらぬ独自のポップスによってフォークや歌謡曲を過去のものに追いやり、日本の音楽の頂点に君臨する。

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