1977年、ジェイグレイドンのギターからAORへの流れが生まれた

1977年、ジェイグレイドンのギターからAORへの流れが生まれた

「“シティミュージック”という言葉はアメリカにはないよ。あえて言えば “アーバンミュージック” かな」
マイケルフランクス(アーバンミュージックの先駆的シンガー)

日本の音楽ファンにはなじんでいる「AOR (Adult Oriented Rock)」という音楽ジャンルは、日本だけの特有のものだ。その音楽はアメリカでは強いていえば「AC」=「アダルトコンテンポラリー(Adult Contemporary)」に分類されるべきだろう。また、日本人アーティストによるAOR(通称:和製AOR、J-AOR)的な音楽を、日本では「シティポップ」と呼んでいるが、これもアメリカにはない言葉だ。最近、「松原みき」の「真夜中のドア」のような日本のシティポップの海外での人気が高まったのは意外な出来事だったが、1980年代の日本の経済バブル期につくられた豪勢な響きのJ-AORが外国人の耳に新鮮だったのだろう。

そのようなAORの起源が何か、という話には諸説あるが、初期の象徴的な一曲は1977年の「スティーリーダン」のアルバム、「彩 Aja」に収録された「麗しのペグ Peg」だろう。アルバムのジャケットに写っている女性は、当時、世界に躍進していた日本のデザイナーとともに脚光を浴びていた超一流モデルのの山口小夜子さんである。(写真は藤井秀樹 氏)

レコーディングに惜しみなく時間をかける完璧主義者のスティーリーダンのメンバー、ドナルドフェイゲンとウォルターベッカーは、この曲のギターソロにこだわり、何人ものギタリストにソロを弾かせてはボツにした。最終的にLA生まれのスタジオミュージシャン、ジェイグレイドンが、この歴史的なギタープレイを短時間で見事に決めて、彼の名前も一躍有名なものになった。

同じ1977年にジェイグレイドンがギターを弾いたオリビアニュートンジョンの「きらめく光のように – “Making A Good Thing Better”」という曲があるが、こちらはAOR的なテイストは皆無で、ギタリストがスティーリーダンの「Peg」と同じだと見破ることは難しいだろう。それほどジェイグレイドンの音楽性は幅広いということだ。

1979年には、ジャズコーラスグループ、マンハッタントランスファーの「トワイライトゾーン」をディスコ調にアレンジしヒットさせる。日本盤のシングルに印字された「テクノディスコ決定盤」という言葉が微笑ましい。

そして、ジェイグレイドンのプロデュースの仕事はさらにAOR的なものになっていく。もしも、AORの歴史を短時間で追いたければ、ジェイグレイドンプロデュースの作品を追いかければいい。

盟友デイヴィッド・フォスター、ビル・チャンプリンと共作したアースウィンド&ファイアーの1979年の一曲「After The Love Has Gone」は、後に自身のユニット、エアプレイでもセルフカバーした名曲中の名曲だ。

その頃、現れた「AOR」専業の歌手で、マークジョーダンの1979年の一曲「私はカメラ I’m Camera」のギタープレイもファンからの評価が高い。

自身のユニット、エアプレイの1980年のアルバムからの「Nothin’ You Can Do About It」。歯切れの良いホーンセクションが印象的だ。

全盛期には6オクターブの音域を持つといわれたアルジャロウの代表曲といえば「Mornin’」だ。ここではジェイグレイドンのギターソロはなく、キラキラしたキーボードの脇役としてリズムギターに徹する。

ジェイグレイドンのプロデュース作品の特徴のひとつは、きらびやかなキーボードにもある。都会的サウンドに必須の電子ピアノのフェンダーローズと、当時急速に発展していたポリフォニックシンセサイザーをうまく組み合わせた。そして、ここ一番の場所には強力無比なジェイグレイドンのギターが入ってくる。このサウンド構成は日本でも、ユーミンや角松敏生などに取り入れられた。

角松敏生にいたっては堂々とパロディをしていて、いかにジェイグレイドンを敬愛しているかがよくわかる。それほどジェイグレイドンの生み出した音楽には影響力があったのだ。

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