1979年、初来日で武道館公演を行ったジャパンが日本のヴィジュアルロックを生んだ

1979年、初来日で武道館公演を行ったジャパンが日本のヴィジュアルロックを生んだ

デヴィッド(シルヴィアン)はニューヨーク・パンク系のトーキング・ヘッズとかテレヴィジョンに凄く触発されたんです。それまではニューヨーク・ドールズだったのが、ニューヨーク・パンクの背景にある芸術的なものにかぶれて。当然その後ろにはヴェルヴェット・アンダーグラウンドやルー・リードがいる

土屋昌巳(日本のロックバンド「一風堂」のリーダー、ボーカル、ギタリスト)

1970年代は、現在のようなSNSやネットの情報はなく、テレビや新聞が取り上げない海外のポピュラー音楽の情報は、もっぱら「本屋さん」で売っている「ミュージック・ライフ」のような音楽雑誌で知るか、地域にある「レコード屋さん」の棚に飾ってあるレコードの解説(ライナーノーツ)から知るかしかないような、古き良き時代だった。

このような時代においても、日本のポピュラー音楽ファンは独自の美意識と音楽観によって、日本独自のスターを支持しファンを拡大することで、日本発の音楽カルチャーを展開した。その代表は、あの「クイーン」で、デビュー当時、イギリスでもアメリカでも売れなかったクイーンを支えたのは、間違いなく日本のファンだった。
そして、クイーンは世界的なロックスターになった。

クイーンに続いて、このような日本発のスターとなったのが「ジャパン」だ。
そして、当時ジャパンを熱烈に応援していた音楽雑誌「ミュージック・ライフ」は、2018年には一冊の書籍にまとめられるほど、多くの紙面を使って、このバンドを推し続け、ファンの心を鼓舞した。

ジャパンは、1979年3月に初めて日本に来て、東京や名古屋の公演は10代の女子たちを中心に超満員となった。

そのジャパンの1978年のデビューアルバムからの一曲がこの「Adolescent Sex」だ。当時は音楽的にあまり注目されなかったが、あらためて聴いてみると、1970年代前半に一世を風靡したマークボランのT.REXのような華やかで猥雑なグラムロックの雰囲気と、当時のロンドンの音楽界を席巻していたパンク/ニューウェーブの勢い、そして、ディスコサウンドのダンサブルさを融合させた秀逸な楽曲だ。

このような楽曲を書ける才能を持つジャパンの音楽的な支柱であったデヴィッドシルヴィアンは、日本女性が伝統的に好む、「線の細い」中性的な美青年であり、瞬く間に日本で人気を博した。

しかし、デヴィッドをビジュアルだけの評価にとどめなかったのが、1979年のシングル「ライフ・イン・トウキョウ」だ。これは当時の大ヒット映画「フラッシュダンス」「ネバーエンディングストーリー」などの音楽で知られる、ジョルジオモロダーと組んだ作品で、ロックから一層テクノ・ニューウェーブ色の強いサウンドに移行し、イギリスでも高い評価を得た。

この路線で制作された1978年の3枚目のアルバム「クワイエット・ライフ」は、肉感的なロック色は排除され、アンビエントなシンセサイザーや無機質気味なリズムによる独自のテクノ的なサウンドでイギリスでの評価をさらに高めた。

このテクノ的なサウンドは、当時一世を風靡した「イエローマジックオーケストラ(YMO)」を生み出した日本の音楽ファンとの親和性も高く、デヴィッドシルヴィアンは坂本龍一や矢野顕子との共演し、弟スティーブジャンセンも高橋ユキヒロと共演するなど、日本での人気をさらに不動のものにしていった。

ジャパンとデヴィッドシルヴィアンといえば女性ファンばかりに囲まれているイメージがあるが、そんなことはなく、男性のフォロワーも確実に生み出していった。

その筆頭が、ジャパンのライブで、雑誌ミュージック・ライフのカメラマンの目にとまり、ジャパンのファンクラブ会報に写真が掲載されたことから人気に火がついた本田恭章だ。

日本の芸能界の独特な演出が加わっているものの、明らかにデヴィッドシルヴィアンをめざしていたことは間違いない。

そして、もう一人、当時、本田恭章のライバルとして人気が高かった故 中川勝彦。現在も人気のあるマルチタレントの中川翔子(しょこたん)の父親である。

このような美貌を持つ男性が、歌謡曲でなく「ロック」の世界で活躍するようになったことに、ジャパンは大きな影響を与え、後のX-JapanやBUCK-TICKやGrayやLUNA SEAのようなヴィジュアル系への流れを作ったのだ。

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